フロイトの「精神分析学入門」の読書感想です。
学んだこと
意識と無意識で人間はできている。意識(自我)だけが「私」ではない。無意識も含めて「私」なのだ。
無意識は良心によって検閲され、意識にのぼらないように制御されている。しかしそれでも無意識が表面にでてくることがある。「しくじり行為」と「夢」だ。
しくじり行為、すなわち言い間違いや物忘れは、無意識にとっての成功となる場合がある。例えば電車に乗り遅れたとき、意識としては「しまった!」と失敗を感じるが、無意識は「この電車の行先には行きたくないんだ」という目標があったのかもしれない。
夢は願望充足のために見ているらしい。意識の監視下においては不純とされるようなことを、無意識は欲している。現実社会では不純な願望はかなわないから、夢で見ることで願望を充足しているのだ。
とはいえ寝ている時でも、意識の検閲のチカラ(良心)が無意識の不純な願望を抑え込もうとしている。だから、あからさまな性的な夢をいつも見るわけではない。性的なものは願望が代理のかたちであらわれる。例えばテーブルや庭などは性的なものの代理を果たしているらしい。
朝目覚めたとき、夢の内容をおぼえているなら、無理やり解釈してみる。これは無意識が求めている願望充足を意識に引っ張り出すのに良い方法らしい。例えば「もしかしたら、夢のあの場面は性的な意味合いがあったのかも」「わたしは夢にでてきたあの人と、不純な関係を築きたいのかも」と考えてみる。当てずっぽうのようであっても、本人が直感でそう思った以上、当たっているのだ。
精神分析のキモは、「ノイローゼ」だ。ノイローゼの症状は、性的な願望である「リビド」が強く影響しているものであり、要は「性をこじらせている」ことに原因があるようだ。
人間は生まれたときから性的なものを感じており、成人して正常な性生活を断念せざるを得ない状況になると、幼児期の性生活に退行してしまう。
気づき
無意識もまた「私」の一部である。言い間違いや物忘れは、自分自身で意識できない「本音」が隠れていることに気づくきっかけとなる。
人間は美しい思想だけを持って生きているわけではないことを自覚させてくれる。不純なことも、無意識の中では欲しているのだ。
夢を解釈してみればわかる。エロス、嫉妬、身の丈に合わない願望、そうしたものを自分が持っていることもわかる。
他人にしても同じだろう。誰もが、実は不純なものを無意識のうちに秘めている。
でも、だからといって、人間自体が不純なわけではない。誰だって身勝手な願望を心の底に持っている。しかし意識がそれを抑え込み、コントロール下に置いている。意識というやつは大したものだ。
意識がもつ「良心」により、無意識の願望を制御できる。あらゆる生物の中でも人間が特別な存在である所以だと思う。
不純な願望を持っていることに後ろめたさを感じることはない。コントロールできていることを誇ろう。これこそ、精神を健全に保つ秘訣ではなかろうか。「私は不純な願望なんて持っていない!」と否定するのはダメ。真面目過ぎてはいけないのだ。
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