ドフトエフスキーの処女作「貧しき人々」の読書感想です。
感想・気づき
1846年に書かれた作品であり、当時は庶民にとって苦しい時代だったと思う。
本書は、苦しい時代に生きる貧しい人々、そうした人たちの中にあって気高く美しい心を持った主人公たちの物語だ。
本書に登場する主人公と相手の女性は、貧しいのに、お互いに相手を想い、わずかなたくわえを相手に渡してしまう。
女性は主人公が無理をしていることに気づき、いつもたしなめる。お金を大切にしなさい、主人公自身の生活必需品にお金を使いなさい、と。しかし主人公は、相手に尽くすことが無上の喜びなのだ。
この二人は、常に利他的なわけではない。どうしようもない状況に陥れば、相手に援助を求めたり、自分自身を優先することもある。しかし落ち着きを取り戻せば、また相手を深く想いやろうとする。
こうした「人間らしいところ」が良いと思う。心はいつも揺れ動き、利己的にも、利他的にも働く。こうした振り子のように揺れる心を、利他的の方向に導こうと努力する。これが人間の美しさの真実ではないだろうか。
葛藤を抱くからこそ、葛藤のすえに善行をなすことのほうが、意味があるのではないだろうか。
心に悪い考えが浮かんだり、ときに悪いおこないをやってしまっても、それも人間の姿なのだからしょうがない。ただ、美しい人々は、過ちをおかしながらも、心を善に導こうと努力する。
悪いことを考えない人が美しいのではない。悪い考えが頭に浮かんでも、善の方向に自分を導ける人が美しいのだ。
本書「貧しき人々」を読んで、そんなふうに思った。私にとっては本書は「美しき人々」の物語だ。
もう1つ、本書を読んで痛感したことがある。それは、現代の日本に生きている私は、十分に幸せな境遇にあるということだ。
街で物乞いをするかわいそうな少年や、自分の家族の空腹を満たしてやることができない父親が本書に登場する。
自分自身にも余裕がないため、不幸な人々に手を差し伸べてやることができない。こんな状況は、とても辛いものだと思う。
私も父親である。子どもたちがお腹を空かせているのに、何も食べ物を与えてやることができない状況を想像してみると、それだけで悲しくなる。それが現実に起こるとすれば、どれだけ辛いだろう。
それに比べ、今の、現実の私はなんと幸せなことか。
自分も家族も、お腹をすかすことはない。いつでも十分な食事にありつける。肉でもパンでも好きなものが食べられるし、デザートだって用意できる。コーヒーやお酒などの嗜好品もすぐに手に入る。
こんなに恵まれているのに、それでもなお、私たちは何かに不安になっている。
今の時代は物質的には十分に満たされている。私たちがより豊かであるために必要なのは、他者を深く思いやる心ではないだろうか。「貧しき人々」の主人公たちはそれを体現している。
どんなに物質的に恵まれていても、他者を深く思いやる心を持てないならば、心の「貧しき人々」に陥ってしまう。現代にはそうした人々が多いように感じるのは私だけだろうか。
コメント